最高裁判所第二小法廷 平成9年(行ツ)151号 判決 1997年10月31日
東京都板橋区成増一丁目一三番九号
上告人
安田榮一
同二丁目一〇番五号
上告人
安田静枝
同三丁目五一番二一号
上告人
木村嘉代子
東京都板橋区大山東町一七番九号
上告人
有田喜代子
同世田谷区奥沢三丁目三五番二〇号
上告人
鈴木登代子
同練馬区土支田四丁目九番一八号
上告人
安田良二
右六名訴訟代理人弁護士
佐藤義行
後藤正幸
東京都板橋区大山東町三五番一号
被上告人
板橋税務署長 島田昌夫
右当事者間の東京高等裁判所平成八年(行コ)第一二六号所得税更正処分取消請求事件について、同裁判所が平成九年三月二四日言い渡した判決に対し、上告人らから全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
上告代理人佐藤義行、同後藤正幸の上告理由について
原審の適法に確定した事実関係の下においては、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はなく、右判断は、所論引用の判例に抵触するものではない。論旨は、違憲をいう点を含め、独自の見解に立って原審の右判断における法令の解釈適用の違法をいうものにすぎず、採用することができない。
よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 根岸重治 裁判官 大西勝也 裁判官 河合伸一 裁判官 福田博)
(平成九年(行ツ)第一五一号 上告人 安田榮一 外五名)
上告代理人佐藤義行、同後藤正幸の上告理由
第一 はじめに
本件は、被相続人訴外安田敬一郎(以下「敬一郎」という)が、平成元年九月一一日に死亡したことに伴い、上告人安田榮一(以下「上告人榮一」という)及び訴外安田由子(以下「由子」という)と敬一郎との雇傭関係が終了し、上告人榮一と由子に退職金が支払われた。上告人らは、被相続人の平成元年分の所得税につき、右退職金を同人の事業所得の計算上必要経費に算入して準確定申告(所得税法一二五条)を行なったところ、被上告人が、右退職金相当額は被相続人の事業所得の計算上必要経費に当たらないとして更正処分を行なったため、上告人らが同更正処分の取消しをもとめているものである。
しかし、以下に述べる理由により、右上告人榮一と由子に支払われた退職金は、いずれも被相続人の平成元年分の事業所得の計算上必要経費(所得税法二七条二項)に算入されるべきものであり、これを必要経費に当たらないものとして、上告人らの控訴を棄却した原判決は、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令解釈の誤りがあるので、取り消されなければならない。
第二 上告人榮一に対する退職金支払債務について
一 退職金について
1 原判決は、上告人榮一と敬一郎間の雇傭契約は、上告人榮一が「相続開始時に遡って使用者たる地位を承継したことにより、使用者としての地位と従業員としての地位が同一人に帰した結果、混同により消滅したものというべきである。」としながらも、上告人榮一に対する退職金支給債務は、次の理由により発生しなかったとして、本件退職金の必要経費算入を否認した被上告人の判断は正当であるとする。
「使用者の従業員に対する退職金の支給債務及びこれに対応する従業員の退職金支払請求権は、雇傭契約の終了、すなわち退職の事実が生じたことにより当然に発生するというものではなく、労働契約、就業規則等でそれを支給すること及びその支給基準が定められているか、あるいは少なくとも明確な支給条件に従った慣行がある場合に発生するものと解すべきである」
「本件就業規則を受けて制定された本件退職金規定において退職金は、<1>停年退職(満六〇歳)、<2>業務上又は業務外の事由による死亡、<3>業務上又は業務外の事由による傷病のため就労が困難になった時、<4>自己の都合による場合のいずれかに該当するときに支給する・・・旨を定めていることが認められる。」
「そうすると、本件就業規則及び本件退職金規定は、使用者の死亡による相続に伴って使用者と従業員の地位が混同したことにより雇傭関係が終了し、退職した場合について、退職金を支給する旨を定めていないことは明らかであり、」
「本件のように、使用者の死亡により相続人たる従業員が事業(使用者としての地位)を承継し、地位の混同を生じたために雇傭契約が終了したという場合には、当該事業にかかる財産関係が相続人たる従業員に帰属することになるのであるから、事業承継人に対して退職金を支給しないことと解しても特に不合理であるということはできないし、そのような特殊な場合に敢えて退職金を支給するのであれば、その旨を明確に定めておくのが相当である」
2 しかし、まず第一に退職金も就業規則等でこれを支給すること及びその支給基準が定められていれば、使用者の裁量において支払われる単なる恩恵的給付ではなく、使用者に支払い義務のある賃金と認められる(最判昭和四三年五月二八日判例時報五一九号八九頁、菅野和夫著「労働法」第三版補正版一六七頁、なお昭和二二年九月一三日発基一七号)。
それ故、就業規則に退職金を支払う旨の定めがある場合は、退職金についても、通貨支払の原則、直接支払の原則、全額支払の原則(労基法二四条一項)等の賃金の支払に関する諸原則が適用されるのみならず、合理的理由なくして差別的取り扱いをすることが禁止される(労基法三条、憲法一四条)。
即ち、労働者の退職事由により、退職金を全く支給しないとか或いは減額して支給する旨の規定の効力については、退職金が賃金の後払いとしての性質を有することを理由に退職事由により支給に差異を設けることの合理的理由はないとする違法説や労働基準法及び社会通念の許容する範囲内で是認されるとする限定的適法説が主張されているところであって、裁判例の多くは限定的適法説に立って、支給事由に差異を設けることに合理的理由がある場合にはかかる規定を有効とするが、支給事由に差異を設けることに合理的理由がなく社会的相当性を欠く場合には当該差異を設けた部分を無効と解し、他の場合と同額の退職金の支給を肯定している(名古屋地判昭和四九年五月三一日労働経済判例速報八五七号一九頁、東京地判昭和五二年一二月二一日判例時報八八七号一一四頁、大阪地判昭和五九年七月二五労民集三五巻三・四号四五一頁、その控訴審大阪高判昭和五九年一一月二九日労民集三五巻六号六四一頁)。
しかして、本件は、就業規則に退職金を支給する旨が定められ、退職金規定も定められている場合であるから、右賃金支払いに関する諸原則が適用され、かつ均等待遇が要求される場合であるといわなければならない。
3 これに対して原原則は、本件退職金規定が退職金支給事由として、「<1>停年退職(満六〇歳)、<2>業務上又は業務外の事由による死亡、<3>業務上又は業務外の事由による傷病のため就労が困難になった時、<4>自己の都合による場合」の四つのみを規定し、混同による雇傭契約の消滅は、本件退職金規定において退職金支給事由とされていないので、退職金支給債務は発生しないと解している。
4 しかし、まず本件退職金規定は、右<1>ないし<4>の場合に限定して退職金を支給する規定であると解することはできない。例えば東京地判昭和五九年八月二九日(労働判例四四二号五四頁)は、就業規則に「自己都合による退職」の場合に退職金を支給する旨の定めの外退職金支給規定の存在しない場合において、右規定が他の事由による退職金の支給を除外する趣旨であると解することはできないとしている。
ましてや、本件の場合、原判決のように退職金規定を限定して解すると、従業員が自己の都合で退職した場合には退職金請求権が発生するのに、本件のように事業主側に生じた事由により雇傭契約が終了した場合には退職金支払請求権が発生しないことになり、事業主側に生じた事由による退職者を自己都合による退職者より著しく不利益に取り扱うものであり、しかも自己都合により退職した者に対してすら退職金が支払われるのに、事業主側に生じた事由を契機とする退職者に対しては退職金が支払われないという矛盾、不合理を容認することになる。
かかる本件退職金規定の解釈は、前記労働基準法三条及び憲法一四条に反する解釈である。従って、本件退職金規定を「従業員側に発生した何らかの事情に基づいて退職する場合でなければ当然には退職金を支給しない旨を定めているものと解する」ことは、賃金(就業規則に退職金に関する定めがある場合には、退職金が賃金と解されることは、右2記載のとおり)の均等待遇を定めた労基法三条及び憲法一四条に反するものといわなければならない。
5 これに対して、原判決は、「本件のように、使用者の死亡により相続人たる従業員が事業(使用者としての地位)を承継し、地位の混同を生じたために雇傭契約が終了したという場合には、当該事業にかかる財産関係が相続人たる従業員に帰属することになるのであるから、事業承継人に対して退職金を支給しないことと解しても特に不合理であるということはできないし、そのような特殊な場合に敢えて退職金を支給するというのであれば、その旨を明確に定めておくのが相当である」として、「本件退職金規定が、相続により事業を承継したことによる雇傭関係の終了を退職金の支給事由として予定していると解することは困難である。」とする。
しかし、本件のような特殊な場合であるからこそ、かかる場合を規定しておくことが困難なのであり、原判決の述べる理由は本未転倒というべきである。
むしろ、就業規則を定めた事業主の意思及び就業規則を所轄の労働基準監督署に届け出るに際してこれに賛意を表した意見書(労基法第九〇条二項)を出した従業員の意思を経験則にしたがって合理的に解釈すれば、本件退職金規定(甲第三号証)第一条の定めは、但し書きに規定された「イ勤続三年未満の者」「ロ嘱託または臨時職員(パートタイムを含む)」「ハ懲戒解雇された者」「ニ禁固以上の刑に処せられ失職した者」「ホ同盟罷業、怠業その他争議行為または怠業的行為をした者」に該当せずに退職した者には、退職金は支給される趣旨であったと解さなければならない。何故なら、雇傭者は、長年勤務してきた従業員が、事業主にとって何らの不都合なく退職した場合には、退職金を支払わなければならない旨の意思を有しているのが通常であるし、他方従業員も、自己に何ら不都合なく退職に至った場合には退職金が支払われるものとの認識を有しているのが通常であるからである。原判決の本件退職金規定に関する解釈は、かかる退職金を定めた通常の雇傭者及び退職金規定に賛成した従業員の通常の意思及び経験則に反するもので、本件退職金規定を合理的に解釈したということはできない。
6 これに対して、原判決は、「本件のように、使用者の死亡により相続人たる従業員が事業(使用者としての地位)を承継し、地位の混同を生じたために雇傭契約が終了したという場合には、当該事業にかかる財産関係が相続人たる従業員に帰属することになるのであるから、事業承継人に対して退職金を支給しないことと解しても特に不合理であるということはできない」とする。
しかし、以下に述べるように、事業承継人に対して退職金を支給しないことと解した場合の不合理は明らかである。
(1) 退職金は、賃金の後払いとしての性格を有し、特に本件のように退職金支給において勤務年数と給料との関係で退職金の額が定まる規定の場合は、その性格が顕著である。しかして、所得税法もかかる退職金の賃金後払いとしての性格を考慮して、「退職所得の金額は、その年中の退職手当て等の収入金額から退職所得控除額を考慮した残額の二分の一に相当する金額とする。」(所得税法三〇条二項)と規定しているのである。したがって、原判決のように、事業承継人に対して退職金を支給しないことと解することは、従業員に右所得税法の規定の適用を受ける機会を失わしめるのであるから、租税法の最高法原則である課税平等原則および課税公平の原則に背反する。よって原判決のように、上告人榮一が事業を承継したことをもって、「退職金を支給しないことと解しても特に不合理であるということはできない」と解することは到底許されない。
(2) また、本件退職金規定を原判決のように解すると、相続開始の際に自ら退職を申し出て、相続により使用者となった者は、自己都合による退職者として退職金請求権を取得するのに、本件の如くいずれ自己が使用者たる地位を取得することになろうと推測して退職の申し出をしなかった場合には、退職金請求権を取得できないことになり、これらの者の間の不平等を考えれば、「事業承継人に対して退職金を支給しないことと解しても特に不合理であるということはできない」とする原判決は、到底首肯できるものではない。
(3) さらに、右の如く、原判決は「本件のように、使用者の死亡により相続人たる従業員が事業(使用者としての地位)を承継し、地位の混同を生じたために雇傭関係が終了したという場合には「当該事業にかかる財産関係が相続人たる従業員に帰属することになるのであるから、事業承継人に対して退職金を支給しないことと解しても特に不合理であるということはできない」と判示するが、退職金が必要経費に算入されないことによって、相続人ら全員の被相続人に係る遺産の額が実質的に増大し、遺産分割協議において次のような不利益を受けると共に、退職金が退職所得ではなく暦年単位課税の給与所得となる不利益を蒙ることとなり不当である。
そもそも退職所得とは、退職により一時に受ける給与及びこれらの性質を有する給与に係る所得をいうものとされ(所得税法三〇条一項)、最高裁第二小法廷判決は、ある金員が「退職により一時に受ける給与」に当たるというためには、それが、1退職すなわち勤務関係の終了という事実によって初めて給付されること、2従来の継続的な勤務に対する報償ないしその間の労務の対価の一部の後払いの性質を有すること、3一時金として支払われること、との要件を備えることが必要であり、また、右規定にいう「これらの性質を有する給与」に当たるというためには、それが、形式的には右の要件のすべてを備えていなくても、実質的にみてこれらの要件の要求するところに適合し、課税上、右「退職により一時に受ける給与」と同一に取り扱うことを相当とするものであることを必要とすると解すべきである(最高二小昭五八・九・九判、民集三七巻七号九六二頁)と判示している。本件退職金は、右判示に係る全ての要件を具備しており、所得税法上の退職所得として支給され受領したことは議論の余地なく明白である。
してみると退職所得として支給された額が敬一郎の事業所得の計算上必要経費の額に算入されないことの違法は明らかであり、原判決は右最高裁判決にも違反することになる。
(4) しかも、本件のように、遺産分割によって上告人榮一が被相続人の事業用財産使用者を取得した場合であっても、上告人榮一に対する退職金が相続債務となるか否かは上告人榮一が他の相続人に支払う代償金の額等の遺産分割協議成立の内容・条件・結果に影響を及ぼす重大な問題であるから、原判決のように「当該事業にかかる財産関係が相続人たる従業員に帰属することになる」ことをもって「退職金を支給しないことと解しても特に不合理であるということはできない」ということはできない。
(5) そして、そもそも本件のように退職金支給において勤務年数と給料との関係で退職金の額が定まる規定の場合は、勤務年数が一年増加するごとに潜在的退職金請求権が増加することになる。ただ、退職金請求権は退職の事実が発生したときに顕在化するだけのことである。そうすると、労働の対価として発生し積み重なっていた退職金が雇主の死亡によって退職をした場合にのみ潜在的に発生していた労働債権が忽然と消滅するいわれはく、原判決の解釈は、かかる観点からも是認できるものではない。
7 以上の次第で、本件退職金規定においても、上告人榮一に対して退職金支払債務が発生しないものと解することはできず、かかる退職者に対しても退職金は支払われなければならない。
しかして、本件における上告人榮一は、事業主の死亡という正に事業主側の生じた事由により退職を余儀なくされた者であり、自己都合による者に対してさえ退職金が支払われる本件退職金規定において、上告人榮一が退職金支払請求権を有しないと解することは、前記均等待遇を定めた労基法三条及び憲法一四条に反して許されないといわなければならない。
8 そこで、本件の場合上告人榮一に支払われるべき退職金の算定方法が問題となるが、本件退職金規定の支給率表には、退職理由として<1>自己都合、<2>定年・死亡、<3>業務上死亡の三種が規定されており、退職金の算定において基本給に乗じられる係数は、<1>の自己都合がもっとも低く、<3>の業務上死亡がもっとも高く、<2>の定年・死亡はその中間となっている。そこで、本件のように事業主側に生じた事由により退職した場合には、<1>の自己都合よりも高く、<3>の業務上死亡でもなく、かつ<1>または<3>を準用する合理性は見出し得ないから、結局<2>の定年・死亡の係数により退職金を算定することはむしろ当然であり、少なくとも<1>または<3>の支給率に比して、<2>の支給率を準用することに特段の合理的理由がある。そして、前記のように労基法上もかかる解釈が採られなければならないものであって、支給率表に使用者死亡等の事業主側に生じた事由による退職理由が記載されていないことは、本件退職金を合理的に算定するにおいて、何ら障害とはならないのである。
9 よって、定年・死亡の場合に準じて、退職時の基本給に係数を乗じて算定された退職金は、上告人榮一において支払請求権を有する退職金であり、本件所得税の計算上、必要経費として認めなければならない。
10 また、仮に<2>の定年・死亡の支給率を準用することができないとしても、原判決が認定するように、上告人榮一が遺産分割により「相続開始時に遡って使用者たる地位を承継したことにより、使用者としての地位と従業員としての地位が同一人に帰した結果、混同により消滅した」と解するのであれば、その退職事由は、<1>の自己都合に該当するか、しからざるとも<1>の自己都合に準じたものであり、少なくとも<1>の自己都合の場合に準じて、退職時の基本給に係数を乗じて算定された退職金は、上告人榮一において支払請求権を有する退職金であり、本件相続における相続債務と認められなければならない。
もし、自己都合によって退職した者に対しては退職金が支払われるのに、事業主が死亡したことによって退職した者に退職金が支払われないという解釈を是とするのであれば、その不合理性、不平等性は明らかである。
二 功労金について
原判決は、上告人榮一に退職金支払請求権が発生しない以上、功労加算金が支給される余地がないとして、功労加算の必要経費性を否定しているが、右のとおり上告人榮一は、退職金支払請求権を取得しているのであるから、上告人榮一に支払われた功労加算金についても、必要経費として認められなければならない。
三 有給休暇について
原判決は、上告人榮一に退職金支払請求権が発生しない以上、退職に際して、未消化の有給休暇を買取る旨の取り扱いも認められる余地がないとして、未消化有給休暇買取分に相当する金額の必要経費性を否定しているが、右のとおり上告人榮一は、退職金支払請求権を取得しているばかりでなく、退職金と未消化の有給休暇買取は、一体不可分のものでのなく、右買取は、他の労働者(従業員)にも適用されていたものであるから、必要経費として認められなければならない。
第三 由子について
一 そもそも雇傭契約は、いわゆる人的色彩の濃厚な契約の一つであり、したがって契約当事者の地位ないし権利義務は、一身専属的なものと観念されるものである(新版注釈民法 六〇頁)。民法六二五条一項が、使用者の地位の譲渡を原則として禁止しているのもこの理を明らかにしたものと解されている。しかして、被上告人の主張するように、個人事業主が死亡した場合には、相続人に雇傭関係が承継されるとしても、右雇傭契約の性質に鑑みれば、それはあくまでも被用者(労働者)の保護を目的とした取扱いに過ぎず、かかる解釈が提唱されることによって、右雇傭契約の本質が変質したものではない。
しからば、労働者が、雇傭契約の承継を希望しないときにまで、当然の承継を強制することは、右解釈が労働者保護のためのものであるという目的に照らし、到底是認されるところではない。しかして、本件においては、由子は雇傭契約の承継は欲していないのであるから、被用者たる地位を強制することは許されず、雇傭契約の原則に戻って、雇傭関係は終了したと解されなければならない。
二 また、個人事業主が死亡した場合には、労務に一身専属性が認められる場合を除いて、相続人に雇傭関係が承継されるという解釈それ自体も問題である。何故なら、かかる解釈によれば、相続人に事業を承継する意思がなく、かつ事業を承継する能力、資格等に欠ける場合にまで、相続人が使用者たる地位に就任することを強制されてしまうからである。かかる法解釈は、相続人に被相続人の跡を継ぐことを強制する封建時代の身分性に逆戻りする思想から生じるもので、前近代的な法解釈であり、被用者の職業選択の自由(憲法二二条一項)を侵害するものといわざるを得ない。
ましてや、本件の場合上告人榮一を除く他の相続人は、事業を承継する意思がないのみならず、適法に事業を承継するために必要な病院開設の許可の取得並びに社会保険、国民健康保険及び労働者災害補償保険法における医療機関の指定等の手続を一切とっていないのであるから、かかる者が事業を承継したかのごとき解釈は全く妥当性を欠くフィクションといわざるを得ない。
三 さらに、敬一郎の死亡に伴い新たに使用者となった上告人榮一は、平成元年一〇月一二日開催された職員懇親会において、事務長である上告人良二を通じて全職員に対して「医療法では新病院になり職員全員新規採用となりますが、安田敬一郎に在席した期間は勤続年数に通算します。」(甲第九号証)との報告を行なっている。そして、この報告に対して、職員等(由子を除く)から何ら異議が述べられなかったことから、各職員に対して敬一郎の死亡時点で退職金を算定・支給せずに、右報告のとおり将来の退職の際に敬一郎に雇用されていた期間も通算して退職金を算定することとしたのである。
従って、由子以外の従業員は、自ら敬一郎の死亡時点での退職金を受領せずに、将来の退職の際に敬一郎に雇用されていた期間も通算して退職金を受領することとしたのであり、右事実からも由子の退職は明らかである。
また、由子以外の従業員に退職金が支払われなかったのは、右のような事業によるのであり、従って、退職金が支払われなかったことをもって雇用関係が継続しているということはできないし、就業規則の解釈において使用者の死亡が退職金支給事由となっていなかったと解することもできない。即ち、使用者の死亡により雇用関係は当然に相続により承継され、かつ使用者の死亡が退職金の支給事由となっていないのであれば、敬一郎の死亡から間もない平成元年一〇月一二日に、敢えて職員に対して右のような報告を行なう必要は全くないのであり、従って上告人榮一が良二を介してかかる報告を行なっている事実に鑑みれば、使用者の死亡を退職金の支給事由としていたことは明らかである。
これに対して、原判決は「懇親会における説明は、医療法上、新たな病院開設許可となることとの関係においてされたものにすぎず、榮一及び由子以外の従業員で敬一郎の死亡に伴い退職した者がいなかったことは前記のとおりであるから、従業員ら当事者としても、雇傭関係が終了したという認識はなかったものと推認することができる。」と述べているが、「医療法上、新たな病院開設許可となることとの関係においてされたものにすぎ」ないのであれば、「安田敬一郎に在席した期間は勤続年数に通算します。」(甲第九号証)と述べる必要は全くないのであり、右説明は「新たな病院開設許可となることとの関係においてされたものにすぎ」ないということはできない。いわんや榮一及び由子以外の従業員で敬一郎の死亡に伴い退職した者がいなかったという結果のみから雇傭関係終了の認識の有無を推認する何らの合理性もない。勤続年数の通達・上告人榮一の従前の病院管理者としての人柄等を勘案して退職の申出(雇傭契約の終了)をしなかった結果が生じたに留まると思料するのが相当である。
四 従って、敬一郎と由子との雇傭関係も、敬一郎の死亡により終了したと解さざるを得ないのである。
しかして、由子の雇傭契約が終了した以上、同人に対して支払われた功労金及び有給休暇の買取分相当額を含む退職金が相続債務にあたること右第一記載のとおりである。
第四 まとめ
以上の次第で、上告人榮一及び由子に支払われた退職金は、亡敬一郎の所得の計算上必要経費となるのであるから、これを必要経費にあたらないものとして上告人の請求を棄却した原判決には、判決違反ならびに判決に影響を及ぼすことが明らかな法令解釈の誤りがあるから、取り消されなければならない。
以上